親鸞会 成功へのヒント

 

本田 宗一郎

朝礼のたびにみかん箱の上に立って「世界一になる」と叫んだ本田宗一郎。忍耐と努力で夢の実現に突き進み、やがて本田は世界の頂点に立った。その生きざまを振り返る。

 

オートバイ、自動車で有名な本田技研工業の創始者、本田宗一郎は明治39年(1906)、静岡県天竜市に生まれた。

小さいころから好奇心旺盛で、他の子供が思いもよらぬいたずらをするわんぱく坊主だった。

学校の金魚に青いぺンキを塗って、「珍種誕生」と騒ぐ。スイカに穴を開け、ストローで中身を吸い出し、穴を下に向けて置いておく。「整形手術」と称して石地蔵の鼻を削り落とすなど、武勇伝に事欠かなかった。

やがて宗一郎は、村に来た自動車を見て感動し、「いつか自分の手でコイツを作る」
と決意した。

町工場の修理工、自動車修理会社の社長を経て、昭和21年(1946)、本田技術研究所を設立する。40歳の時であった。

昭和23年(1948)、通信機のエンジンを改良し、オートバイ「ドリーム号」を開発。それがヒットし、一躍日本のオートバイ業界の頂点に立った。

世界を席巻したホンダ

本田は創立当時から「世界一になる」と宣言していた。

「今の技術的な隘路を打開すれば、オートバイは爆発的に売れるようになる。そうすれば次のエンジンはおれが開発するから、うまく回転していけば、世界一なんてすぐだ」

と朝礼のたびにみかん箱の上に立って叫んでいたのだ。

社員は皆、「うちの社長はなんて大ぼらふきなんだ」と思っていた。

昭和29年(1954)、本田宗一郎はマン島(イギリス)で行われたT・T(ツーリスト・トロフィー)レースに勝利すると宣言した。

果たして昭和36年、マン島オートバイレースでホンダは125ccと250ccの2クラスで1位から5位までを独占する。

これが、「世界のホンダ」のスタートであった。

やがてホンダは2輪だけでなく4輪へと進出、昭和41年(1966)、年間16戦あるF2選手権(Fは競争用自動車の略)で8連勝、翌年には11連勝を果たしている。


ホンダ スーパーカブ
40年間スタイルを変えず
世界で累計2800万台生産された

また、昭和61年(1986)から平成3年(1991)まで、F1世界選手権で6年連続総合優勝に輝いた。特に圧巻だったのが、昭和63年(1988)だ。年間16試合のうち15試合で優勝を上げた。あまりにホンダエンジンが強いので規格が改定されてしまったほどだった。

本田宗一郎は、世界で認められ、平成元年10月、日本人で初めて自動車の殿堂入りを果たす。これはアメリカが選定するもので、自動車の技術者にとって最高の名誉であろう。

こうして本田は「世界一になる」夢を実現したのである。

「やらまいか」の精神で

仏教に「持戒」という言葉がある。今日でいえば、言行一致ということだ。「頑張るぞ」と宣言するのはだれでもできる。しかし、実現するためには忍耐と精進(努力)を要する。

では本田はどれだけの努力をしていたのか。

昭和29年(1954)、マン島T・Tレースに出場を宣言した時、ヨーロッパのオートバイの速さに本田は大きな衝撃を受けた。それ以後、どうすればエンジンの回転が上がるのか、馬力を上げるにはどうすればいいか……、夜を徹しての開発を始めた。

毎日、工場に泊まり続ける。休む時間はおにぎりを食べている時ぐらい。のどが渇けば水道の蛇口に口をつけて飲む。

後に本田技研社長となる河島喜好は、若手の社員だった当時をこのように語っている。

「社長(本田宗一郎)は煙草を吸わないからいい。僕なんか煙草に火をつける暇もなくて困ったもんさ」

それほど熾烈であった。このような努力の結果、マン島T・Tレースを制覇したのだ。

いざ勝負となったら、「やらまいか」(浜松の方言で「やってやろうじゃないか」)の精神で決してアキラメなかった。

これは、

「人は、私の頭の中に創造力というバッテリーが詰まっていて、次々にアイデアが飛び出すように思っているが、そんなことはない。四苦八苦の末の、いわば苦し紛れの思いつきなのである。人並み外れた好奇心と、努力と反省のサイクルをフル回転させて、へとへとになりながらアイデアを見つけ出しているのが現状だ」

「『もうだめだ』と思うのは平凡なやつさ。『この野郎』と切り替えて考えるのがおれなんだ」

の言葉からも明らかである。

底抜けの明るさと、仕事に対する喜びで大きな壁を克服していったのだ。

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