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土光 敏夫
2つの企業を再建した経営者・土光敏夫。その生活は清貧そのもので、常に努力と精進を怠ることがなかった。多くの人から慕われ、尊敬された「モーレツ経営者」に学ぶ。
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石川島播磨重工や東芝の社長、経団連、臨時行政調査会会長を歴任した土光敏夫は、休日返上で仕事に生涯を懸けた経営者として実業界に名を残している。
明治36年、岡山県に生まれた土光は、大正9年、東京高等工業(現在の東京工業大学)を卒業し、民間造船所の草分け、東京石川島造船所に就職した。
「寝ても覚めても頭の中はタービンのことだけ」と当時を語るように、研究熱心なタービン設計者として、社内で一目置かれていた。
瞬く間に出世街道をひた走り、昭和21年、10年前に移籍した石川島芝浦タービンの社長に就任した。
古巣再建の早朝出勤
昭和25年、54歳の土光に大変な仕事が回ってきた。経営難に苦しむかつての古巣の再建である。石川島造船から石川島重工に改名したものの、敗戦後の経済難から風前のともしびと化していたのだ。
どのようにして会社を立て直すか……土光は悩んだ。社長に決まって初めての出勤日、痛烈な先制パンチを食らわせた。早起きして午前8時前に会社に出社した。工場の門には守衛が立っているが、まさか社長が早く出社してくるとは思っていない。
就任したばかりなので社長の顔を知らない守衛は、「あなたはだれですか」と質問した。
すると、偉ぶった様子もなく、「今度、社長になりました土光と申す者でございます」と言ってきたので、守衛は目を丸くさせて驚いた。
そのエピソードを知った役員は、己の姿勢を反省し、社長に負けじと早朝に出勤し、何倍も仕事をするようになった。
上司の精勤に心打たれた社員たちも、呼応するように一生懸命働き、社内の雰囲気は一変した。
次に、社内報を作り、自ら書いた会社再建の具体的構想の原稿を掲載した。新年の初出勤の日、例によって会社に一番乗りをした土光は、社員1人1人に社内報を配りだしたのだ。
年頭から先陣を切って動きだす社長の姿勢に、社員は皆びっくりした。そして全員が社長の年頭の挨拶を熟読し、期待にこたえようと一致団結して働いた。
傾きかけた石川島重工は上げ潮の波に乗り、一気に世界レベルの企業に躍り出たのである。
重役を一喝
昭和40年、土光に再び大きな仕事が回ってきた。創立以来の危機にあえぐ東芝の再建である。
ここでも、「モーレツ経営者」ぶりを発揮し、7年間で東芝の立て直しに成功している。特に社長就任の際に役員を一喝した言葉は経済界でも語り草となっている。
「社員諸君にはこれまでの3倍働いてもらう。役員は10倍働け。私はそれ以上に働く」
がそれである。
当時の重役クラスは、朝10時ごろ出勤し、夜は東京の新橋周辺で、飲み食いしている風潮があった。上に立つ人間ほど犠牲的精神が必要なのに、現実は全くのあべこべであった。
そんなだらけた雰囲気を一掃し、先陣を切って働くとの一大宣言を社内に叫び、東芝の再建に好スタートを切ったのであった。 弊衣粗食の日常生活
華やかな経歴とは裏腹に土光の私生活は「清貧」そのものであった。
質素な生活ぶりから
「メザシの土光さん」と言われた
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5000万円近い年収のうち、1ヵ月の生活費に使われるのは10万円程度でしかない。収入の大半は人材養成のためになげうった。朝食は自家製ヨーグルトと庭で自ら栽培した野菜、昼はソバかカレーライス、夜はイワシの丸干しに味噌汁。宴会にも出席せず、7時には帰宅し、家の中でも仕事、勉強にいそしんだ。
1日の平均睡眠時間は4時間から5時間で、毎朝4時か5時に起床して、朝早くから夜遅くまで無駄な時間を過ごす時がなかった。
「怒号」、「カミナリおやじ」とあだ名されるほど厳しい人間だったが、単なる精神論一本槍ではなく、その裏には徹底した熟慮があった。どうすれば会社をよくすることができるか、頭がしびれるほど考え、構想を練った。
いざ動くとなったら、猛きこと火のごとし、だれの追随も許さぬ強い信念で難局を打開していった。
だからこそ、厳格な土光に多くの人が従っていったのだ。
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